備前焼の名作家
金重陶陽(かねしげ とうよう)本名、勇。(1896年1月3日 – 1967年11月6日)
備前市伊部に、窯元 金重楳陽(槇三郎)の長男として生まれました。
金重陶陽は、昭和31(1956)年、備前焼で初めて人間国宝に認定されました。
細工物の名人でしたが、視野の広い人で、全国各地の名工や数寄者と付き合って、桃山時代の備前焼の名品を数多く鑑賞しました。金重陶陽は、これからの備前は「桃山に帰る」ことにあるとして、自ら桃山時代に迫る優れた作品を残しました。また、桃山の土を再現するために土を吟味し、窯を工夫して独自の登り窯を築きました。
藤原啓(ふじわら けい)本名、啓二。(1899年2月28日 – 1983年11月12日)
農家の三男として、岡山県備前市(当時の和気郡伊里村)穂浪に生まれました。
少年期から俳句や小説の才能を発揮した藤原啓は、大正8(1919)年、小説家を目指して上京しましたが、昭和12(1937)年に文学を断念して帰郷します。
翌昭和13(1938)年、近隣に住む正宗白鳥の弟で万葉学者の敦夫の勧めで、藤原啓は備前焼の道を歩み始めました。39歳、遅い陶芸人生の始まりでした。金重陶陽や北大路魯山人らから指導を受け、作陶の道を邁進した藤原啓は、師である金重陶陽とは対照的に、素朴で大らかな作風で知られています。
鎌倉・室町時代の雑器の美を、近代的造形感覚で蘇らせた藤原啓は、昭和45(1970)年、人間国宝に認定されました。古くから受け継がれた備前焼の新たな展開を示した藤原啓は、後進の備前焼作家に大きな影響を及ぼしました。
山本陶秀(やまもと とうしゅう)本名、政雄。(1906年4月24日 – 1994年4月22日)
備前市伊部生まれ。
15歳で伊部の窯元へ見習いとして入った山本陶秀は、27歳のとき備前焼作家として独立しました。
轆轤(ろくろ)の技術に優れていたことから、「轆轤の名人」と呼ばれるようになりましたが、この技法が、繊細にして優美な、優れた茶陶を生み出したのです。山本陶秀が目指したのは、安土・桃山時代の茶陶でした。それは、「桃山備前」呼ばれる、全盛期の備前焼でした。
金重陶陽の影響を受けながら、山本陶秀は桃山備前を求め、その卓越した轆轤技術から独自の茶陶を生み出していきました。昭和62(1987)年、「茶陶の陶秀」の高い技術が認められ、人間国宝に認定されました。山本陶秀80歳のことでした。
藤原雄(ふじわら ゆう)(1932年6月10日 – 2001年10月29日)
備前焼作家、藤原啓の長男として、岡山県備前市(当時の和気郡伊里村)穂浪に生まれました。
右目の視力は0.03、左目は全く見えないというハンディがありましたが、健常者同様に普通学校、そして東京の大学への進学を断固として薦めたのは、父親でした。そして父親同様、青年時代は文学や音楽に熱中していたといいます。備前焼の伝統を重んじながらも、新しい感性に溢れた作品作りを追求した藤原雄は、平成8(1996)年に人間国宝に認定されました。また藤原雄は、「焼き締め陶公募展」を開催し実行委員長を務め、後進の発掘と育成にも力を注ぎました。
伊勢﨑淳(いせざき じゅん)本名、惇。(1936年2月20日 – )
備前焼作家、伊勢崎陽山の次男として、岡山県備前市伊部に生まれました。
昭和34(1959年)、岡山大学教育学部特設美術科卒業。
中世の窯(穴窯)を復活させるなど、備前焼の歴史を探求する一方、イサム・ノグチ(1904-1988)や池田満寿夫(1934-1997)等、芸術家と積極的に交流し、備前焼に新境地を拓いてきました。伝統・造形双方を手掛ける伊勢崎淳は、平成16(2004)年に人間国宝に認定されました。
伊勢崎淳のユニークさは、何といっても、そのモダンな造形感覚にあります。伝統的な茶器からオブジェ、インスタレーションまで、大胆なフォルムによる斬新な作品を発表し、国内のみならず、国外からもその動向が注目されています。総理大臣官邸の壁面装飾は、伊勢崎淳が制作した、備前焼レリーフです。
参考文献:
山本雄一 著 「備前焼の魅力と技法」(ふくろう出版 発行)
上西節雄・中村昭夫 著 「日本のやきもの 窯別ガイド 備前」 (淡交社 発行)
動画提供:備前国活性化コンソーシアム (BAC)
写真提供:森大雅、森本直之
撮影協力:ギャラリー夢幻庵、備前商工会議所